応援されるブランド【第5弾】COSUCOJI
創業時から“家族の笑顔のきっかけづくり”という理念を掲げ、埼玉県北浦和を拠点にレディースファッションのセレクトショップを多店舗展開している、COSUCOJI(コスコジ)代表の小杉光司さん。
理念を額に入れて掲げているだけの企業が多いなか、それを経営の中心に据え、細かな顧客データを収集し、想いをカタチにするCOSUCOJI独自の応援される仕組みを構築。
コロナ過ではスタッフの安全を一番に考え、緊急事態宣言期間中の休業を決断するだけでなく、その間の給与を100%保障。
さらにその期間中に仕組みを細かく調整することで、アパレル業界が大きく業績を落としたコロナ過においても、ほぼ売り上げを落とさず成長を続けてきました。
お店を拡大するより、今あるものを磨き輝かせるという経営姿勢で、地域から愛され続けるセレクトショップはどのようなブランド戦略を描き、どのようにして周りから応援され、成長してきたのか。
小杉さんご自身のヒストリーからCOSUCOJIの誕生とその歩み、そしてCOSUCOJIの未来の姿をエイドデザインがお伺いしました。
<COSUCOJIインタビュー記事・コンテンツ>
1. 両親の働く姿から学んだ商売の原点
2.父からの問いで気付いた理念の大切さ
3.大転換からの大飛躍
4.応援されるために必要なのは人間関係
5.スタッフは全員、元○○○ ←ここ、一番驚きました!
6.ブランドは言行一致させること
7.ずぶ濡れになってでも来てくれたお客様
8.『あったかさ』は人を引き寄せる
1. 両親の働く姿から学んだ商売の原点
AID:ご実家は呉服屋さんをされていたのですか。
小杉氏:はい。呉服屋の次男として生まれました。呉服屋というとすごく儲かっているイメージがありますが、僕が生まれた当時から業界は徐々に縮小傾向にあり、社長である父は歯を食いしばりながら、生き残りを賭けた様々な挑戦をしていました。
AID:たとえばどのような挑戦でしょうか?
小杉氏:父が一番力を入れていたのは催事です。お店にお客様を呼んで、店の中で商売をするスタイルはもう時代に合わない。だから特別な場所を借りて、そこで大きな演出をして売上を立てようとしていました。
もう、徹底してやっていましたね。この時の父の挑戦は今の僕に大きな影響を与えています。
一方、母は太陽のような明るい性格なので、お客様の元に出向いて玄関先でお話をしたりして、お客様と人間関係を作った上で父が企画する催事に招待をしていました。
父は経営と企画が得意、母は営業が得意なので夫婦二人が両輪となり上手く回していたのでしょうね。
正直、苦しい時期も多かったと思いますが、今も家族が仲睦まじくいられるのは、父の挑戦と母の明るい笑顔があったからだと思います。
コスコジは「女性の笑顔から家族の笑顔を増やす」という大きなテーマを持って前に進んでいますが、そのテーマが最初に思い浮かんだ瞬間、僕の中にスッと落ち、今もなおブレずにいられるのは、きっと、むかし見た母の笑顔が僕の中心にあるからだと思います。
AID:子どもの頃に見たご両親の姿がコスコジの理念や運営方法につながっているのですね。その後は高校を卒業してから専門学校に行かれたそうですが、これはファッション系の学校だったのでしょうか?
小杉氏:いえ、ビジネス専門学校でした。本音をいうとその学校でビジネスの勉強をしたかったというより、まだ就職したくない!まだ遊びたい!という思いの方が強かったんです。
でも、親には「この学校で俺は学びたいんだ!」とか言って頼みました。まあ、口ばっかりですよねえ(笑)。
AID:私も似たようなものです(笑)。その後、ファッションへの興味が湧いてきたのでしょうか?
小杉氏:そうですね。専門学校に入ってからモテたくて洋服に少しずつ興味を持ち始めました。そのとき丁度、就職のタイミングだったので大手アパレル会社の面接を受けてみて、採用されたという感じです。
AID:そこが全国に300店舗もある大手のファッションカジュアルチェーンだったのですね。入社からわずか2年で店長に抜擢されたと伺いました。すごいですね!
小杉氏:いやあ、これは本当にすごくなくて、ただ単に会社が伸び盛りの時期だったんです。
それこそ年間に50店舗とか60店舗とか増やしていた時期なので、「やる気と元気のある奴は店長にさせてみるか」というような流れで店長になりました。
これは僕の実力云々ではなく、会社の成長の流れにたまたま乗っただけですね。
AID:そこからは順調に活躍されたのでしょうか?
小杉氏:しばらくは順調だったのですが、27、28歳の頃でしょうか。年間で1億円以上売り上げていた大型店に店長として転勤したときに、精神的に参ってしまって…。
理由は上司からのプレッシャーがすごかったのと、あとは僕自身の人使いが下手だったんです。
「俺が正解を持っているんだから、俺の言うことをやれ」というような感じで…。これって人を使う上で一番ダメなパターンじゃないですか。
僕が店長になった当時、スタッフが10人程いましたが一気に8人に辞められてしまいました。
それに加えて、1億円以上を売り上げる店舗だと商品の量も種類もすごくて、当然売上も立てなくてはいけません。そして数字が悪ければ、上司からプレッシャーをかけられる。そういう状態がしばらく続き、次第に夜も眠れなくなり、手が震えたりして、店長になって半年後くらいに「これはヤバいな」となり、病院へ行きました。
正直、怖かったですね。自分がどうなっちゃうのかなと。
結果、ノイローゼという診断が付いて、睡眠薬と抗うつ薬を処方され、しばらく飲み続けました。
AID:大変な時期だったのですね。この時、入院はされなかったのですか?
小杉氏:何とか通院で済んでいて、たまに精神科の先生にお話を聴いてもらっていました。
先生からは「いま死にたいと思っていますか?」とか質問されるような感じです。まあ、死にたいという気持ちはなかったので、まだ芽があったのでしょうね。
AID:そこから社内で社長賞を受賞されるまで回復されたのですね。
小杉氏:はい。薬の量を減らしつつ、2年過ぎた辺りから少しずつ普通に眠れるようになりました。ただ、それでも3年位は薬を飲み続けていたでしょうか。ああいう薬ってやめ時が分からなくて不安になるのですよね。
ちなみに社長賞は最後の転勤先になった北海道のお店でいただきました。
AID:前職での実績もありながら起業を考えたきっかけは何だったのですか?
小杉氏:きっかけは大きく二つあります。
一つはやはり病気ですね。俺、このままここに居ていいのかな、と思うようになっていました。
そしてもう一つは会社からの評価です。自分は本当に休みもなく会社に身を尽くしていて、数字もキッチリと上げていたので仕事には自信はありましたが、会社というか上司の評価に納得がいかなかったんです。悔しいというか情けないというか…。
どうしようもない自分を育ててくれた会社で感謝はありましたが、これからの人生を預けるほど価値があるとは思えなかったんです。
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